2016年3月17日 (木)

イースター礼拝にお出でください!

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人性にとって大切なのは希望

「ショーシャンクの空」という映画があります。「妻殺し」の罪(実は無実)を着せられて刑務所に入れられた元銀行員がそこから脱獄するという話です。彼は刑務所の中にあっても前向きに生きます。彼を支えていたのは少しずつ牢獄の壁に掘っていた穴でした。彼は20年かけて脱獄するための穴を掘って行くのです。脱獄の希望が彼を支えていました。そして時が来た時、彼はその穴を通って自由になるのです。脱獄の後、刑務所で親しくなった友に彼は手紙で語ります。「人生にとって一番大切なのは希望だ」。この映画は「希望がある限り人は前に向かって生きて行ける」と語るのです。第2次大戦中のナチスの強制収容所についてこんな話があります。1944年の冬、収容所の中に「クリスマスに連合軍がやって来て収容所を解放する」というデマが流れました。それを聞いた囚人達は喜びました。ところが12月25日が来ても連合軍は来ない、年を越しても来ません。やがてそれが「デマだった」と分かった時、多くの人が希望を失い、病気に抗し切れずに死んで行ったのです。結局、収容所の生活を生き延びることが出来たのは、体力のある人ではなく、希望を持ち続けることが出来た人だったそうです。希望というものがどれだけ大切なものかが分かります。希望が私達を生かし、支えるのです。しかし、それではその希望はどこから来るのでしょうか。

イエス・キリストは、全ての人の罪の罰を身代わりに受けるために十字架に掛かって死なれました。しかし死んで終わりではなかったのです。十字架から3日後、イエスは甦ったのです。甦ったとはどういうことでしょうか。それは、今も生きておられるということです。かつてイエスは言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)。ある聖書はこの言葉を「この私は人を立ち上がらせる力を持つ」と訳しています。イエスが生きておられるということは、イエスを信じるなら、イエスがその人に関わり、その人を立たせて下さるということです。私は、そこに人生の希望があると思います。

私は10年前にディプレッション(急性鬱症)のために入院しました。生きる希望をなくして絶望していました。どうやってそこから立ち上がることができたかというと、私の英語の先生がやって来て私に言いました。「主(イエス)があなたのために既に何かを始めておられるんだ」。それに希望が生まれました。ある心理学者が「現代人は何を恐れているか」という調査をしたそうです。現代人の恐れは「40%が明日起こるかも知れないこと。30%がすでに過去に起こってしまったこと。12%がありもしない病気のこと。残りの18%が家族や友人、人間関係のこと」でした。これが私達の重荷だとしたら、でも復活のイエスは、それに対抗する希望を私達に語るのです。

私達は過去に悩みます。岩淵由美子さんというゴスペル・シンガーの証です。彼女は嬢さんを8歳の時に病気で亡くします。「内臓が口から飛び出すのではないかと思うくらいに泣き続け、抜け殻のようになってしまいました」。と同時に彼女は自分を責めたのです。「もう少し私が気遣ってあげていれば…」。でもその彼女の心にイエスが語られたのです。「もう自分を責めるのは止めなさい。あなたが自分を責めているあの出来事の中にも私はいました」。彼女の心にどれだけ大きな赦しと慰めを与えたか分からない。イエスが甦られ、生きておられるなら、私達は過去の責め苦から解放されるのです。

私達はまた今に悩みます。でも聖書は言います。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。ある牧師は「この『すべて』には、あなたの失敗も含まれている」と語りました。イエスが生きておられるなら、イエスは、否定的に見える状況をさえ、また私達の失敗さえ、ひっくり返して「私達にとっての『善』」として下さるのです。その希望に今を生かされます。

また私達は将来について悩みます。しかし甦って生きておられるイエスは言われました。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)。讃美歌の中に「イエスが私の将来を握っておられる、イエスが生きておられるから私の人生には生きる価値がある」と歌う歌があります。生きておられる救い主イエスが、私の将来に責任を持って下さるということを教えるのです。希望ではないでしょうか。そして、その将来とは、死を越えて行く将来なのです。 

 イエスの復活にこそ、人生の希望があります。教会では3月27日にイエスの復活を祝う礼拝を致します。お出でになりませんか。

2015年12月18日 (金)

2015年クリスマス集会のご案内

2015 「クリスマス祝会」にぜひお出でください。

ご一緒にクリスマスをお祝いしましょう。

2015年8月 3日 (月)

夏のCSキャンプ腹話術の集会

Photo_2 春風ひかりさんの腹話術、とても楽しいです。

 どうぞ、お気軽に、教会においでください。

2015年4月 4日 (土)

イースター礼拝のご案内

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佐土原教会にお気軽にお出で下さい!

2014年12月19日 (金)

クリスマス祝会ご案内

2014 クリスマスをご一緒にお祝いしましょう。お待ちしています。

2014年10月 9日 (木)

佐土原教会へのアクセス

Photo 佐土原キリスト教会の場所です。

宮崎市佐土原総合支所から西に200メートルです。

毎週日曜日午前10時30分から礼拝を行っています。

どうぞお気軽にお出で下さい。

2014年10月 1日 (水)

2014年9月28日礼拝

2014年9月28日礼拝

●9時00分 教会学校(幼児、小学生)

お話:「アブラハムの旅立ち」

●10蒔30分 主日礼拝

聖書:マタイ福音書27章27~44節

メッセージ:「自分を救わない救い主」

1.内容~十字架を負ったシモン

十字架を運ぶイエスはすでに拷問や虐待を受けておられた。もう重い十字架を背負う力はなかった。ローマ兵は代わりに十字架を担がせる者を探す。その時に目をつけられたのが「クレネ人シモン」でした。思いもしない迷惑なことが彼に起こった。イエスがこの時受けておられた辱めを、自分も共に引き受けなければならない屈辱的な体験だった。しかしこの後、シモンは「あいつのお蔭で無理やりあの十字架を担がせられたのだ」と腹を立てて、イエスを捨てたのではなかった。「マルコ」や「ロマ書」から、シモンはキリスト者になったと思われる。なぜキリスト者になったのか。分からない。しかし「彼がこの出来事から何を感じたのか」、それは思い測ることは出来る。

「マタイ福音書」は、「イエス様の十字架がどんなに残酷な、悲惨なものであったのか」書かない。代わりに2つのことを書く。1つは「人々が主イエスを罵り、嘲る場面」だ。皆がイエス様を罵る。そこに見えるのは人々の残酷さだ。イエスは肉体的にも激しい痛みを経験されただろう。しかしイエス様を痛めたのは、むしろ人々の残酷さだったのではないか。しかも残酷なだけではない。人々は言う。「お前が十字架から降りるなら、信じてやっても良い。私の神にしてやろう」。人間の「神」に対する姿勢は横柄だ。シモンは、イエス様と共に人々の言葉を受けながら、今まで見えなかった人間の罪性を見たのではないか。人はどんなに残酷になれるのか、人は神の前にどんなに罪深い存在なのか、だからどんなに救われなければならない存在なのか、それを知ったのではないか。

しかし、そしてそれ以上に「マタイ福音書」が強調するのが、黙って嘲りを受けるイエス様の姿だ。なぜイエス様は何も答えないのか。ここで「詩篇22篇」で預言されていること、聖書に書いてあることが現実になっている。パウロは「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだ…」(コリント15:3~4)と書く。「聖書に書いてある通り」とは「それが神の意志だった」ということだ。イエス様は「罪の中に生き、神さえも嘲り、天国への歩みが出来なくなっている、その人間を救う」という神の決意を断固として為しておられる。その意味で、イエス様は自分を救えないのではない、救わないのだ。ここに、「人を救う」という神の意志がイエス様を通して行われている。「人を救う」、その神の意志があるからこそ、罪人の私達でも救われる。シモンはイエス様に近づいた。そして「神の意志」に触れたのではないか。それが彼を信仰に導いたのではないか。いずれにしてもこの箇所は「救われなければならない人の罪の現実」を書き、「罪人を救おうとされる神の意志」を描く。

2.適用~私達も十字架を負って

聖書学者はこの箇所について言う。「福音書は、イエスの十字架を担いで歩いたシモンの姿に本来あるべき信者の姿を見ようとしている」。この箇所から思い出される御言葉は「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい…」(マルコ8:34~37)。シモンこそ、十字架を背負ってイエス様の後を従って歩いた人だった。そして福音書が彼の姿に「信者の本来の姿」を見ているということは、私達は、十字架を背負い歩くシモンをイメージしながら、十字架を担いで歩くということについて真剣に考えなければならないのではないか。

「十字架を負って歩く」とはどういうことか。「十字架を負う」、本来の意味は「死刑場に向かって歩いて行く」ということ。「死に行く」、あるいは「自分を殺す」ということだ。「自分を殺す」とはどういうことか。渡辺和子という方が「小さな死」ということを言っている。彼女がアメリカに留学した時、先生に「私は十字架の上で死ぬ覚悟が出来ています」と言ったら、先生は「これからのあなたの十字架は、毎日、毎日、針の先でチクチク刺されるような痛みを笑顔で受けることです」と言った。「毎日の小さな苦しみを笑顔で受ける、腹が立つことを、嫌なことを、笑顔で受けて行く」。彼女は「それは自分に死ぬことなしには出来ない」と言う。いずれにしても「自分が変えられることの必要」ということではないだろうか。ある人が言った。「分かるということは、分かった時に自分自身が変わるもの」。私達はイエス様を信じて、イエス様の教えを素晴らしいと思う。その素晴らしさが分かったつもりになる。しかし問題は「分かっても自分自身を変えない」ということではないか。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」、それは「その頑なさを殺して、私の言うこと、することをしっかり学んで、私の後をついて来なさい」という招きの言葉ではないか。

シモンは、十字架を背負って歩いた時に「神の救い」に触れた。私達も十字架を背負って歩く時に見えるものがあるのではないか。ある方は職場の人間関係で随分と悩まれた。「神様、なぜこんな人を私の近くに置かれたのですか…」、そう呟いていた。しかしある日、御言葉が響いて来た。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」(マタイ5:46)。それから「敵を愛する」という十字架を背負って歩き始めた。その中で「この人は私を神に近づけてくれる人だったのだ」と思えるようになった。十字架を担いで生きてみて、初めて見えて来るものがあるのではないか。ジョン・ロスという学者が言う。「キリスト教信仰は、見えない神様が見えるキリストになって下さったところから始まった。(『キリストの受肉』)。そうであれば、信仰は受肉しなければならない。信仰は具体的な形を取らなければならない」。信仰は形を取らなければならない。それが十字架を担いで歩くこと。イエス様に学んで、殺すべき「頑なさ」を殺して行く、「自分が変えられる」という形を取るべきものなのだと思う。さらにある学者が言う。「頑なさにおいて自分を殺すことを学んだら、次は人を愛する労苦のために自ら死ぬことを学ばなければならない、人を愛することは十字架を負うことである」。シモンは十字架を負ってイエス様の後を歩いた。私達にとっても「十字架を負う」と表現される信仰の姿勢、それが、私達がこの命を大事に生きて行くために大切なことなのだと思う。自分の頑なさを変えることにおいても、誰かを愛することにおいても、十字架を負って歩くことを求めて行きたいと願う。

 

2014年9月26日 (金)

2014年9月21日礼拝

2014年9月21日礼拝

●9時00分 教会学校(幼児、小学生)

お話:「バベルの塔」

●10蒔30分 主日礼拝

聖書:マタイ福音書27章1~2節、11~26節

メッセージ:「あなたがそういうなら、わたしはあなたの王です」

要旨:

1.内容~ピラトの裁判

ピラトはイエス様に尋ねる。「あなたは、ユダヤ人の王…か」。それに対してイエス様は「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。(この言葉には後でもう一度戻る)。イエスはその後、沈黙を守られる。しかしその裁判の席で声を上げる者がいる。群衆だ。ピラトは、祭司長達の言いなりになってイエスを裁きたいとは思わなかった。しかし祭司長、長老達の言うことを全く無視することは出来ない。皇帝に直訴されると経歴に傷がつく。そこで慣例になっている「恩赦の制度」を用いてイエスを釈放しようと考えた。バラバという男は、おそらく愛国主義の暴力革命家だった。それだけにローマに反感を持っている国民には人気があった。群衆は「バラバの反ローマ革命運動」に期待して、バラバの釈放を求めて来た人々だったのだろう。そのような人々が集まるように祭司長達が手を打ったのかも知れない。群衆はバラバの釈放を求めて叫ぶ。しかも「バラバの釈放」だけでなく、祭司長達から「ナザレのイエスを死刑にするよう」叫ぶように、何らかの方法で扇動されていたのだろう。ピラトにはイエスが十字架に付けられるような罪人ではないことが分かっていた。しかし結局、群衆の声に負ける。暴動を起こされるのは困る。祭司長達に、皇帝に直訴されるのも困る。そうやって彼らの声を聞き、イエスを十字架につけることに同意する。

2.メッセージ~キリストを王として

ピラトの「お前はユダヤ人の王なのか」の問いに対して、イエス様は「それは、あなたが言っていることです」と答えられる。ある英語の聖書は「あなたがそう言うなら、そうです」と訳す。「あなたがそう言うなら、そうです」とは、「あなたがそう言うなら、私は(あなたの)王です」という意味ではないだろうか。それは読者に「あなたは私を誰だとするのか。私を王とするのか」、そう問いかけている言葉ではないか。時にキリスト者は、世の権力者を、キリスト以上の存在とするように圧力を受ける。日本もそのような時代を取って来た。しかし私達は、どんな状況になろうと、「イエスが私の神です、私はイエス・キリストを私の王とします」という信仰の証しにおいて間違ってはいけないと思う

しかしイエスを王として生きると言うことは、具体的にはどうすることだろうか。この箇所は「それは悔い改めを忘れないことだ」と語るのではないだろうか。ある人が言った。「キリスト者であるということは、罪を言い表すということを覚えることである」。私達は、生きて行く上で罪を犯さざるを得ない存在だ。その人間の罪の姿をこの記事は語る。1つはピラトの姿によって。ピラトは、権力者として、どうすることが正しいのかを知っていた。また正義を行う責任もあった。しかしユダヤ人の機嫌を損ねたくなかった。群衆の暴動を恐れた。それで身を護るために、ユダヤ人に妥協する形で本来為すべき正義を行うことを拒否した。聖書はこの記述を通して私達に迫る。あなたにはこの罪はないのか。他の人に対して、神に対して、あなたは正義を貫いているのか。自分の身を護るために正義を拒否し、妥協し、逃げることはないのか。それがあなたの罪ではないのか。

もう1つは群衆の姿である。イエス様を十字架に掛けるのに大きな力を貸しているのは群衆だ。群衆は「イエスを十字架につけろ」と叫ぶ。恐らくイエス様が人々の願う力ある業をしないから、人々は愛より力を求めるから、具体的な益を求めるから、何もしないイエスに腹を立て、暴力によって世の中を変えようとしたバラバを求めたのではないか。あるいは「群衆は、大工の息子が有名になり、もてはやされるのを我慢できなかったのだ」と分析する人いる。そうであれば妬みだ。いずれにしても神の民である人々の頑なさがここに出ている。私達にも覚えがあるのではないか。色々な問題、悩みに放り込まれると、神様に噛みつく。「神様、どうしてこうなのですか。あなたはこのことをどう考えておられるのですか」。神様からどんなに恵みを頂いて今があるが、そんなことは頭にない。ただ目の前の問題があるだけ。そして神が何もされないように思えて、祈りに応えて下さらないように思えて、神の深い御旨は見ずに、ただ神に恨みをぶつける

ピラトの姿、群衆の姿、それは私達の姿ではないだろうか。しかし私達は「今日、生き方を全く変えます」と言い切れるのか。そう出来ない弱さがある。罪の中を生きている。イエスは、なぜ何も言わずに黙っておられるのか、無実を主張されないのか。イエスはここでピラトの裁判を受けておられるのではない。人の罪を背負って神の裁判を受けておられる。神の裁判において、人の罪を背負っておられるからイエス様は無実ではない、有罪だ。だから沈黙される。しかしそうやって本来裁かれるべき私達が、イエス様の身代わりによって罪赦されるのである。神様がイエス様の身代わりの故に私達の罪を赦して下さるのだ。イエス様がそんな「王様」だから、そのようにして私達を生かすために命を捨てて下さった「王」だから、そのイエスを「王」とする私達は、「どうせ私はこんな者だ、どうせ人間はこんな者だ」と開き直らない。悔い改めるのだ。自分の足りなさを悔い改める。悔い改めとは、「王」なるイエス様に対する感謝の裏返しではないか。私を生かすために死んで下さった主の犠牲に感謝し、だからこそ、精一杯、罪を悔い改め、少しでも生き方を変えようとする。その意味で、悔い改めをなくした時、私達は「私は私のために死んで下さったイエス様を『王』と信じます」、とは言えなくなるのではないか。

イエス様を「王」として生きる、その「王」に悔い改めを献げる。しかし、それはどこにおいて具体的に私達の心に刻まれて行くのか。日々の祈りではないだろうか。祈らなければ信仰生活は成り立たない。祈りの中でキリスト者として歩むに必要な霊性と力を頂きたい。

2014年9月18日 (木)

2014年9月7日礼拝

2014年9月7日礼拝

●9時00分 教会学校(幼児、小学生)

お話:「ノアの箱舟」

●10蒔30分 主日礼拝

聖書:マタイ福音書26章69~75節

メッセージ:「弱さを励ます神の御手」

要旨:

1.内容 ゲッセマネの園から逃げペテロは、大祭司の屋敷までイエス様の後をつけて行った。しかし人々から問い詰められ、イエスの仲間であることを否定した。イエスを3度否定した時に鶏が鳴いた。ペテロはそこでイエスの言葉に思い出した。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」。「イエス様の言われた通りだった」。彼はどうしようもない思いを抱えて泣いた。

2.メッセージ この箇所は、イエスを否定することに対する警告を語る。ペテロはイエスを否定してしまう。初代教会の人々は「あなたはナザレ人の一派の者だ、ナザレのイエスの仲間だ、あの連中の仲間だ」、そう言われて迫害された。日本でも、戦前、戦中、キリスト者は社会の圧力を受けた。しかし、自由に信仰ができる今の世の中で、私達はどうであろうか。キリスト者であることをそっとしておきたい思いはないだろうか。キリスト者として生きて行くことは、ある場合、緊張を強いられることかも知れない。しかしそれでも、私達に「主イエスを信じて生きていること、教会の仲間であること」、それをどこかで隠そうとする思いがあるとするなら、それはこの箇所が語る「神に喜ばれない思い、罪」なのではないか。しかし私達はもっと深いところで神を否定してはいないか。ペテロは呪った。彼は自分を呪ったのではないか。「なぜ、このイエスという男について来てしまったのか。お前はバカだ」。しかし自分を呪う、自分の人生を呪う、それは、「自分の人生は神の祝福の中にはない」と決めること、そういう形で神を否定することではないか。私達も「自分は神の祝福の中にいるのだ」ということを認めない、そうやって主イエスを否定してしまうことがあるのではないか。ディプレッションで入院した時、私も自分を呪った。「なぜこんなことを始めてしまったのか。お前はバカだ」。「自分は神の恵みの中にいる」ということをとても信じることは出来なかった。しかしそのどん底のような時も私は御手の中にいた。やがて、その嫌な経験を「なくてはならない体験だった」と思える日が来た。問題に翻弄されて、「自分が神の祝福の中にいる」ということを信じることが出来ないようなこともあるかも知れない。しかしこの箇所は語る。「神の祝福を否定してはならない」。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」この信仰に生きたいと願う。

しかしこの箇所は「イエスを否定してはいけない」と叱咤激励するだけではなく、私達に慰めと励ましも語る。ペテロは主イエスの言葉を思い出して泣いた。しかし「ペテロの物語」は、そこで終わりではなかった。ペテロの涙を拭って下さる方がおられた。主イエスだ。「ルカ福音書」によれば、最後の晩餐の時、イエスは言われた。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。イエスはペテロの裏切りを知っておられた。それを知った上でペテロの裏切りを赦し、しかも信仰がなくならないように、立ち直ることが出来るように、祈っておられた。この言葉がペテロにどれほど大きな慰めになったことだろうか。悔い改めを助けたことだろう。ペテロは、絶望の涙の中からイエスの赦しと、慰めと、励ましの中で立ち上がって行く。そして最後は皇帝ネロの迫害の中で「逆さ十字架」に掛かって殉教した。信仰の生涯を全とうして見事に天に凱旋して行った。どうしてそういう生涯を生き抜くことが出来たのか。彼ははっきりと主イエスを否定した。イエスについて行った自分を呪った。しかしイエスが、ペテロの涙を拭い再び立ち上がらせた。聖霊の力を覆わせ、彼の歩みを導いて行かれた。ペテロは後に福音書を通して自分の経験を語り、クリスチャン達に「たとえどんな状態になろうとも信仰を諦めないこと、救いを諦めないこと、赦しがあること、神は恵みの神であること」、そう伝えたかったのではないか。私達がどんなに弱い者であっても、失敗しても、神が私達を導き、私達の救いを達成して下さる。兄弟姉妹に祈ってもらうことも感謝なこと。しかし何より主イエスが私達のために祈っていて下さる。イエスが祈っていて下さるなら、私達の信仰生活には絶えず希望がある。だから何があっても諦めてはいけない。

 

   

2013年12月18日 (水)

クリスマス祝会

Photo佐土原教会のクリスマス祝会にお出で下さい!